「最適」音律、「想定」音律、「社会的」音律、、、(昼休みつぶやきシリーズ) [最適音律を見極める基準(仮説)]
スポンサー広告
a8mat=2BY7HO+F5YIIA+33TA+609HT" target="_blank">
最近の記事やコメントでは「最適」音律と「想定」音律を混在して使っているような感があるが、両者の用語を区別して使うべきかな、とも感じる今日この頃。
つまり、定義としては、
「想定」音律というのは、作曲家が「○○律」で演奏することを前提として曲Aを作曲した場合のその「○○律」ってことで、
一方、
「最適」音律というのは、上記曲Aを演奏するのに最も適していると思われる(ないし感じられる)音律ってことですよね。
言い換えると、「想定」音律は客観的なものであり、一方、
「最適」音律は、主観(特に判断する人の「価値基準」、「体内音律」さらにはそれらの「引き出し」の多さ)や教養や予備知識等に影響される可能性が大ですよね。
なので、「想定」音律と「最適」音律が食い違う場合が起こり得る訳ですよ。
一番ありそうなのが「トンボー(~の墓)」とかじゃないですかね。この形式?の曲は、作曲家が~の死を弔うために、「わざと不協和音が多い調を使って書いた(ものが多い)」とか、そういう説があり、平成23年2月16日現在の私もその説を支持してます。
で、「最適」音律の価値基準を「最も美しく響く音律を選ぶべき」としてしまうと、「想定」音律と全く正反対な結果が出てしまうことになりますよね。
この延長線上にあるのが、ミーントーンなどの所謂「調律替え」論ですよね。
あと、「社会的」音律、「個人的」音律という概念があるらしいです。これは以前にとある上の方とメールで情報交換した際に教えていただきました。
要するに、昔のヨーロッパでは、一般人が礼拝等のために出入りする教会に設置されているオルガンの音律(一般には「ミーントーン」ですよね)が「社会的」音律になる。 それに対して、チェンバロなどでは個人が自分の好きな音律を自由に設定できる(誰にも干渉されない、多数決原理は働かない)ので、「個人的」音律になる、と、こういうことだと思われます。
あ、時間が来てしまった。それではまた m(__)m
a8mat=2BY7HO+F5YIIA+33TA+609HT" target="_blank">
最近の記事やコメントでは「最適」音律と「想定」音律を混在して使っているような感があるが、両者の用語を区別して使うべきかな、とも感じる今日この頃。
つまり、定義としては、
「想定」音律というのは、作曲家が「○○律」で演奏することを前提として曲Aを作曲した場合のその「○○律」ってことで、
一方、
「最適」音律というのは、上記曲Aを演奏するのに最も適していると思われる(ないし感じられる)音律ってことですよね。
言い換えると、「想定」音律は客観的なものであり、一方、
「最適」音律は、主観(特に判断する人の「価値基準」、「体内音律」さらにはそれらの「引き出し」の多さ)や教養や予備知識等に影響される可能性が大ですよね。
なので、「想定」音律と「最適」音律が食い違う場合が起こり得る訳ですよ。
一番ありそうなのが「トンボー(~の墓)」とかじゃないですかね。この形式?の曲は、作曲家が~の死を弔うために、「わざと不協和音が多い調を使って書いた(ものが多い)」とか、そういう説があり、平成23年2月16日現在の私もその説を支持してます。
で、「最適」音律の価値基準を「最も美しく響く音律を選ぶべき」としてしまうと、「想定」音律と全く正反対な結果が出てしまうことになりますよね。
この延長線上にあるのが、ミーントーンなどの所謂「調律替え」論ですよね。
あと、「社会的」音律、「個人的」音律という概念があるらしいです。これは以前にとある上の方とメールで情報交換した際に教えていただきました。
要するに、昔のヨーロッパでは、一般人が礼拝等のために出入りする教会に設置されているオルガンの音律(一般には「ミーントーン」ですよね)が「社会的」音律になる。 それに対して、チェンバロなどでは個人が自分の好きな音律を自由に設定できる(誰にも干渉されない、多数決原理は働かない)ので、「個人的」音律になる、と、こういうことだと思われます。
あ、時間が来てしまった。それではまた m(__)m
そういう意味では、バッハのあの曲集は、「想定音律の懐が深い」と言えるのかも知れませんね。
by koten (2011-02-16 13:15)
これは非常に興味深い問題提起ですね。
「想定音律」が明示されていることはほとんど無く、それ故客観的根拠を見いだすのは困難な場合が多いと思います。「最適音律」は、kotenさんが書かれているように主観的側面が強くて、なかなか共通認識には至らないのではないかと思います。
ただ、例を挙げておられる「トンボ—」の場合、追悼の感情が良く表れる音律が「最適音律」と考えることも出来るのではないでしょうか?必ずしも「最も美しく響く音律」である必要はないように思いますが、いかがですか?
「社会的音律」と「個人的音律」も、少し掘り下げてみると面白いかもしれませんね。
by ogawa_j (2011-02-16 18:08)
ogawa_j さん、いらっしゃいませ。
深夜なんでカフェインの少ないお茶でも ( ^-^)o旦~~ どぞ ♪
>ただ、例を挙げておられる「トンボ—」の場合、追悼の感情が良く表れる音律が「最適音律」と考えることも出来るのではないでしょうか?必ずしも「最も美しく響く音律」である必要はないように思いますが、いかがですか?
・・・すみません、これ、昼休みに急いで書いたもので、私の本文が舌足らずでしたね(反省)。
そうなんです、「トンボー」の場合、「最適音律」の基準は私も「追悼の感情が良く表れる音律」が良いだろうと思うのです。
で、例えばルイ・クープランが作った「トンボー」は、嬰へ短調という(その当時のフランスでは通常使わないような)調を選択していて、他にもバロック・リュートの大家のS.L.ヴァイスなんかも通常とても使わないような♭が凄く沢山付いた調のトンボーを2曲書いているのです。
そして、そういった曲に対して、よく使う和音が「美しく響く」ように、(フレンチ)ミーントーンの調律替えをしたり、リュートだったらフレット位置を修正したりするのは「違う」のではないか、ということです。通常使う音律のままで良いのではないか、そうすれば、そのまま不協和な音程が多くなるので、「心の痛み」、「追悼の意」が表現されるのではないか、ということです。
なので、上記の曲の場合は、「特に音律を変える必要はない」、「楽器はいつも使っている(音律の)状態のままでOK」であろう、というのが私の意見です。
>「社会的音律」と「個人的音律」も、少し掘り下げてみると面白いかもしれませんね。
・・・そうなんですよ、これ、いかにも面白そうなテーマですよね。
本当、音律研究してると一生退屈しませんね(爆)
by koten (2011-02-16 22:47)
なるほど,調の使い回しにも表と裏(ハレとケ?)があると。
そう言う場合は特に音律の使用を間違える(想定音律を変えてしまう)と大変ですね。ヴァイスをギターで弾く場合は気を付けないと。
以前,慶事弔事どんな時でもOKだからということで,白いクルマがはやったことがありましたが,あれ音律選択と同じような発想でしたね。
by Enrique (2011-02-17 10:10)
Enriqueさん、いらっしゃいませ。
(*^◇^)_旦~~ イラッシャーイ♪
( ^-)_◎ ドーナツもどうぞ
>ヴァイスをギターで弾く場合は気を付けないと。
・・・そうなんですよね。ヴァイスのシンプルな曲になればなるほど、「あの音律」だと正直ちょっとキツイですね。
>白いクルマがはやった
・・・私、最近クルマ運転しないので疎いのですが、なるほど、そんなことあったのですね。ううん、「白いクルマ」≒「万能用途神話?の「あの音律」」ってところですかね(笑)。
by koten (2011-02-17 13:04)